LOGIN部長と久我先生が帰ったあと、広すぎる部屋に一人だけ残された。
テーブルの上には、渡されたばかりの書類の束。そんなことより、別れ際、部長は言った。不倫はしない、と。
それが正しいことくらい、頭ではわかっている。わざわざ自分から不利な立場に足を踏み入れる理由もない。それなのに、胸の奥に黒い澱のようなものが残っていた。
「どうして、こんなに悲しいんだろう」
誰もいない部屋で呟いて、そんな自分に嫌気が差す。
断られたことが、思っていたより深く突き刺さっていた。昨夜は酒の力を借りていたとはいえ、心のどこかで一線を越えるつもりだった。長年秘めていた気持ちに、彼の優しさを重ねていたのかもしれない。
でも、今の部長にとって、私はそういう対象ではないのだろう。
考えてみれば、元夫からも求められた記憶はなかった。一年一緒に暮らして、肌が触れることすらなかった。妻としても、女としても、何かが足りないのかもしれない。
「もうやめよう、こんなこと考えるの」
これ以上考えても惨めにな
連れてこられたのは、都心の一等地に建つ高級タワーマンションだった。地下駐車場に入るだけでカードキーの認証が必要で、エントランス、専用エレベーターと何重にもセキュリティが敷かれている。エレベーターも居住者の権限がなければ階数を押せない仕組みらしい。「こんなところ……」最上階近くの部屋に通されて、さらに言葉を失った。壁一面のガラス窓の向こうに、東京の街並みが広がっている。複数の寝室がある三LDK。家具も家電も、すでにすべて揃っていた。「ここなら、あいつらも踏み込めない」部長は淡々と言った。「ここって、いったい……」「俺が用意した」「用意したって、こんな部屋を……」数時間でこんな部屋を手配できるものなのか。いくらエリートでも、個人でできる範囲を超えている。戸惑う私を見て、部長はふっと小さく笑った。「勘違いするな。俺の私邸じゃない」「え……?」「今は、お前をこれ以上追い詰めさせない」「不倫はしない」その言葉が車の中で聞いたときと同じ重さで蘇り、胸の奥が小さく痛んだ。「……わかってます」「なんだその顔は」「何でもありません」これ以上惨めな気持ちになりたくなくて、話を逸らした。「あの、ここ、家賃はいくらなんですか」部長が一瞬、言葉に詰まった。「……そこを気にするのか?」「当たり前です」自分の給料で払えるような部屋ではない。裁判がどれだけ長引くかもわからない。「カードも使いたくないし、現金も底をつくかもしれません。こんな家賃、払い続けるなんて――」「金の心配はしなくていいと言っている」「でも――」「必要ないと言っているだろう」その態度に、ますますわからなくなる。「どうしてそこまでしてくれるんですか」気づけば、口をついて出ていた。「赤の他人の私に、どうして」部長の目をまっすぐ見返す。「お金なら、母の遺産を相続できたら全額お支払いします。昨日、自分にも利点があるって言ってましたよね」「そんなもの、端からいらない」迷いなく否定される。「榊原の財産に、一片の価値もない」「じゃあ……」それなら、なおさらわからない。「どうしてここまで助けてくれるんですか」短い沈黙のあと、部長が口を開いた。「……正式に離婚したら、俺と結婚してくれ」「……えっ」聞き間違いかと思った。「けっこん……?」「ああ」「私と、で
部長と久我先生が帰ったあと、広すぎる部屋に一人だけ残された。テーブルの上には、渡されたばかりの書類の束。そんなことより、別れ際、部長は言った。不倫はしない、と。それが正しいことくらい、頭ではわかっている。わざわざ自分から不利な立場に足を踏み入れる理由もない。それなのに、胸の奥に黒い澱のようなものが残っていた。「どうして、こんなに悲しいんだろう」誰もいない部屋で呟いて、そんな自分に嫌気が差す。断られたことが、思っていたより深く突き刺さっていた。昨夜は酒の力を借りていたとはいえ、心のどこかで一線を越えるつもりだった。長年秘めていた気持ちに、彼の優しさを重ねていたのかもしれない。でも、今の部長にとって、私はそういう対象ではないのだろう。考えてみれば、元夫からも求められた記憶はなかった。一年一緒に暮らして、肌が触れることすらなかった。妻としても、女としても、何かが足りないのかもしれない。「もうやめよう、こんなこと考えるの」これ以上考えても惨めになるだけだ。それより、これからどう切り抜けるかを考えなければ。ただ、一つだけわからないことが残っていた。どうして部長は、ここまで私のために動くのか。不倫はしないと言い切り、裁判で不利にはさせないと誓い、久我先生まで連れてきて、水面下ですでに動き始めている。昨日、自分にも利点があると言っていた。榊原の財産絡みの話なのだろうか。もし母の遺産を取り戻せたら、その一部を渡すことになるのか。そう考えれば、少しは筋が通る。そんなことを考えていたとき、インターホンが鳴った。久我先生の忘れ物だろうか。モニターに歩み寄り、映像を見て、血の気が引いた。見知らぬ、険しい表情の男。しかも一人ではない。背後に体格のいい男たちが何人も控えている。全員ダークスーツ。ホテルの従業員でないことはひと目でわかった。「……誰なの」父が私の居場所を嗅ぎつけたのか。震える手で扉を開けるべきか迷っていると、スマートフォンが鳴った。画面には「小松部長」の文字。「はい……っ」
俺はすぐに義父へ電話をかけた。「澪から離婚の通知が来ました」『なんだと?』 電話の向こうで声が荒くなる。きっとそんなことを想像もしていなかったのだろう。「弁護士を立てています」 事務所名を告げると、しばらく沈黙があった。『澪がそこに依頼したのか?』「そう書いてあります」『馬鹿な……』 義父の声が明らかに変わった。俺と同じ考えだったのだろう。あまりにも大手過ぎる。『そこは金だけ積めば、突然の個人案件をすぐに引き受けるような事務所じゃない』 あの澪に誰が手を貸した?澪を匿い、弁護士まで用意した人間が。「居場所を調べます」『待て。勝手なことをするな』「ですが、このままでは――」 俺を制止すると、義父が歯ぎしりをする音が聞こえた。その不快な音に、俺は表情をゆがめるがそれは見えないから問題ないだろう。『澪には何もできん。金も自由に使えないようにしてある。お前も澪のカードを全部止めろ』 その言葉に、俺は言葉を捜した。俺のカードなど澪には渡していない。
◇◇ Side 恒一 澪が家を出たことに気づいたのは、その日の夜だった。 正確に言えば、朝から姿を見ていないことには気づいていた。 だが、どうせ少し頭を冷やせば戻ってくると思っていたのだ。「まだ帰ってないの?」 リビングのソファに座った美咲が、不安そうに俺を見上げる。「放っておけばいい」 そう答えながら、スマートフォンをテーブルの上へと置いた。 連絡はないが、もちろんこちらから連絡するつもりもなかった。 昨日から澪の態度は明らかにおかしかった。 美咲がこの家に来たことが気に入らないのだろう。 昔から美咲を疎んでいたと聞いていたが、まさか食事にまで細工するとは思わなかった。 一度くらい痛い目を見たほうがいい。 自分がどれほど恵まれた立場にいるのか、少しは理解するだろう。「でも……お姉さん、私が来たから怒ってるんだよね」「美咲のせいじゃない」「でも……」 俯いた美咲の頭を軽く撫でる。昔からそうだった。美咲はいつも周りを気遣う。 自分が我慢すればいいと言って、何でも飲み込もうとする。 それに比べて澪は――。 そこまで考えたところで、ふと違和感を覚えた。 朝食のあと、澪はどこへ行くとも言わなかった。 いつもなら、出かけるときには必ず俺に伝えていたはずだ。 夕食の時間になっても戻らないことなど、この一年、一度もなかった。 だから何だというのだ。少しぐらい自分の立場をわからせるべきだ。そう思った俺だったが、ふと腕に触れた美咲の手で我に返る。「電話してみたら?」「いや、行くところもないんだ、帰ってくるだろう。甘やかすわけにはいかない」 そう言い捨てると、美咲は泣きそうな顔をする。「でも、お姉さんに何かあったら、私……」 美咲に言われ、仕方なく澪の番号を表示する。 数回の呼び出し音がするが、し
「考え直した」「……はあ」「お前が、そんな男たちのために不貞を働く必要はない」「でも、それでは離婚したいと言っても――」「できる」短い一言に、続く言葉を失う。助けを求めるように隣の弁護士を見る。久我先生は分厚いファイルを開きながら、静かに話し始めた。「まず、ご主人からの身体的DVの件ですが」頬にそっと手を当てる。腫れは引いていたが、皮膚の下にまだ鈍い痛みが残っていた。「……一度だけです。殴られたのは」「一度でも暴力は暴力です。立派な離婚事由になります。それから、血の繋がらない異母妹を自宅に住まわせ、夫の寝室で寝泊まりさせているという同居環境についても」「はい。でも、それが本当に離婚理由になるのかは……」「調べればいいだけの話だ」部長が遮った。「それと、父から継いだはずの財産のことも、根本から確認する必要がある。名義は自分のものだと言っていたが、正確な内容や通帳の在り処を、お前は今、把握しているのか」核心を突かれ、言葉が出なかった。母が亡くなり、相続の説明を受けたはずだった。でもその隣にはいつも父がいて、私が質問しようとするたびに割って入り、代わりに答えた。渡された書類に、言われるまま署名と捺印を重ねただけだった。思い返せば、あちこちに不自然な空白がある。「……あまり、わかっていません」正直に言うと、部長の表情がさらに険しくなった。「やっぱりか」そう呟いて、久我先生に目を向ける。「実家側が隠している財産も含めて、すべて洗ってくれ。向こうの顧問弁護士には、こちらの名前を出すな」「承知いたしました」現実が、私の意思とは無関係なところで動き始めている。「ちょっと待ってください」思わず声が出た。二人の視線がこちらを向く。「こんな大がかりなこと、費用はどうなるんですか。私、払えるかどうか……」蓄えがまったくないわけではない。でも夫に
目を開けると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。見覚えのない天井。やけに広いベッド。頭の芯がまだ痺れていて、状況を理解するのに数秒かかった。そうだ、昨夜、私はすべてを置いてあの家を出た。 そして、小松部長と――。「不倫……」声に出した途端、昨夜の熱が急速に冷めていく。何を考えていたんだろう、私は。あの結婚生活から抜け出したかった。慰謝料を請求されても構わない、そのつもりでいた。でも、だからといって部長を巻き込んでいい理由にはならない。しかも彼には婚約者がいるはずだった。跳ね起きるように上体を起こす。どうして昨夜、あの場で確かめなかったんだろう。酔っていたとはいえ、あまりにも軽率だった。「断らなきゃ。こんな関係、今すぐ終わらせないと」震える手でスマートフォンに伸ばしかけたとき、インターホンが鳴った。こんな時間に誰だろう。ルームサービスか清掃か、そう思いながら壁のモニターを覗き込んで、私は固まった。「……部長?」声が裏返った。慌ててロックを開ける。「おはようございます」穏やかにそう言った部長の背後に、見知らぬ初老の男性が立っていた。五十代半ばだろうか。仕立てのいいダークスーツに、重そうな革の鞄。「入ってもいいか」「あ……はい、どうぞ」わけもわからないまま二人をリビングへ通す。ソファに腰を下ろした男性が、名刺を差し出してきた。個人名より先に、大手法律事務所の名前が目に入る。「弁護士の久我と申します。小松さんから、昨夜のうちに大まかな事情は伺っております」「弁護士……ですか」隣に立つ部長を見上げる。彼が弁護士を用意すると言っていたのは覚えている。でも、翌朝いきなり本物を連れてくるとは思っていなかった。「あの、その前に部長」「なんだ」「昨日の話なんですけど」言葉が喉に詰まる。それでも、言わなければ後悔する。「やっぱり、不倫なんてやめにしましょう」部長の眉がわずかに動いた。「私が言い出したことなのに、こんなことを言ってすみません。でも部長には、結婚を誓った方が――」「いない」「え……?」「婚約者は、もういない」言葉が出てこない。「でも、会社にいたときは、お似合いの人がいるって……」「破談になった。それだけだ」まるで天気の話でもするような口調だった。これ以上踏み込んでいいのかもわからない。「それでも、
部屋を片付けていると、背後で静かにドアが開く音がした。振り返らなくてもわかったのは、甘ったるい香水の匂いがしたからだ。あれからまだ十分もたっていないのに、もう急かしに来たのだろうか。「まだ終わってないわ」振り返らずにそう言うと、後ろでドアが閉まったのが分かった。仕方なく振り返ると、そこには美咲だけが立っていた。「恒一さんは?」別に興味はないがそう聞くと、美咲は「お風呂よ」と答えた。時間からして、食事をしてきたのかどうかもわからないが、こんなに早いとは思わなかったし、昼間の父の電話のこともあり、今日は作っていない。「へえ、確かにゲストルームよりこっちの部屋の方が広いわね」私の横を
仕方なくキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けると、中に並んでいる食材はどれも昨日までの自分が用意したものばかりであることに気づき、思わず小さく息を吐いた。当たり前だ。この家で食事を作ってきたのは、ずっと私だったのだから。私はいつも通りに味噌汁を火にかけ、卵を割り、焼き魚を用意した。出来上がった料理をトレイに乗せてダイニングへ運ぶと、リビングでソファに腰かけている恒一さんと、その隣に当然のように身を寄せる美咲の姿が目に入った。その距離の近さに、これが預かっている妹との距離かとため息が零れ落ちそうになる。「できたわ」それだけを告げて仕方がないので、自分も食べようと席に着こうとした時だった。「
やはりいつもと違う部屋だからか、昨日のことがあったからか……。遅くまで寝付けなかったこともあり、気づけばブラインドから明るい日差しが差し込んでいた。「どうしよう!!」朝食の準備が間に合わない、そう思った私だったが、不意に別に作ることはない、そう思った。今日は土曜日。恒一さんも会社は休みのはずだ。美咲が彼と一緒に夜を過ごしたのなら……。そこまで考えて小さく息を吐いて、ベッドを下りた。スーツケースの中から着やすいワンピースを選ぶと、それに袖を通す。ゲストルームということで洗面台もついたこの部屋にいて、むしろ良かった。そんなことを思いつつ支度を済ませた。美咲が現れる前は、夫婦なんて到
寝室を一緒に使おうがどうだろうが、この部屋にいるとまた何かを言われそうだと思った私は、家を出て行くことも考え、荷物をスーツケースに詰めていく。特に大した荷物もないし、とりあえず出て行ったとしても、母のお金を使わなくても働いていた頃の貯金もある。今まで盲目的に父の言うことは絶対で、そうしなければ継母にも怒られる――それがトラウマになっていたのかもしれない。普通に考えれば、こんな私にメリットのない結婚をする理由などないのだ。それ以外にも、この結婚をした理由はあるのだが……。しかし、離婚しようと私が言い出したところで、あの人たちが了承するとは思えない。私はそこで一息つくと、荷物を持って一







